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アジアの片隅で絶望を叫んだ僕は、いかにB2Bという岸に漂着したか。

「なんだよこのバイク?。。。」
 2007年ベトナム・ホーチミンシティの大通り。目の前を通り過ぎる見たことのない数のバイク。住居を案内してくれる不動産屋の男は約束の時間を30分過ぎても現れない。止めどなく流れる汗がTシャツを濡らし、僕の中には、この土地で働くことに対する不安しかなかった。立ちすくむしかない。大丈夫なのか?僕は?。。。

 はじめまして。野嵜 のざき貴宏と申します。ADKにてBtoBをコンセプトとしたクリエイティブチームに所属。僕のキャリアで特徴的なのは、クリエイティブとしてアジア支社駐在を経験しているということ。「アジア勤務」と「B2 toB」に何の関係が??なのだが、勢いだけで飛び込み、アジアの熱風の中で吹き飛ばされ、沈み、溺れ、叫び、漂流し、何とか浮上して周りを見渡したらそこがB2Bという岸だったのだ。今回は、そんな僕の旅について、少しだけ熱量高く書いてみたいと思う。では Here we go!

chapter 1 
 海外で働けるチャンス!?行くしかないでしょ!

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「ノザキさん、さっきも『もう一杯だけ』って言ってましたけど...」

 2006年東京。深夜の居酒屋。又もウーロンハイのおかわり。僕の話を聞いてくれていた後輩Dもさすがに帰りたそうだ。クリエイティブとしてのキャリアも10年を超えて、理由は色々あるのだが、僕は「飽和」した感情を毎日持て余していた。何かが足りなくて、それが何なのか分からなかった。
 
 そんな中、ある告知が目に留まる。ADK社内に「アジアリージョナルセンター(当時)」というアジアのハブとして東南アジア7ヵ国の海外支社を統括する部署が新設されるという。クリエイティブからも一人募集。勤務場所はなんとシンガポールで期間は1年半。「これだ!」と思った。「CMプランナーとして、海外でCM をつくってみたい!」という気持ちの高ぶり。もともと大学は外国語学部で、子供の頃から海外生活に憧れがあった。変化への不安も、クリエイティブの師匠に教え込まれた「Don't Think, Feel」という言葉がかき消し、直感に従い応募。しばらくして行われた面接でも話が弾み、夢が加速度的に拡がっていく。僕の心の中のマーライオンが希望のシャワーを噴き上げていた。そしてシンガポール赴任決定の報が。やったー!僕はシンガポールに行くのだ。シンガポールでCMをつくるのだ!!待ってろ世界!
 
 忘れもしない2007年4月18日、関空から出発した僕はシンガポール・チャンギ空港に降り立ったのである。

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chapter 2 言葉の壁、文化の壁、仕事の壁、壁、壁、

「でノザキ、いつ俺達とドリアンを食いにいくんだよー?」

 2007年夏(というか、ここは毎日夏だ)シンガポールのADKオフィス。今日もCDのエリックが笑顔で僕の席にやって来る。
 新しい毎日は刺激的だった。大都会且つイケイケに伸びている国の活気。初めて食べるアジアンフードの数々。オフィスから歩けばすぐ、歴史の香り漂うラッフルズホテルの敷地。街角のコーヒーは南国らしく超甘く、タバコは900円もしたが、シンガポールの人はみんな陽気でやさしい。なのに、僕は少しいじけていた。

 着任前に英会話レッスンを100時間受けたし、基礎的な会話は理解出来ると思っていたのに、英語で話される打ち合わせに日本人一人でいても内容がよくわからないのだ。。。さらにシンガポールで話される英語「シングリッシュ」には独特のクセがある。エリックと話してるとADのドミニクも「ランチ行こうぜ」とやって来た。エリックは待ってたぜ!という表情で
「OK, lah!オッケー・ラー
 That's シングリッシュ。「OK」の語尾にはlah!ラーが付く(中国語の「了」が語源とか)。一言で「Can キャン!」ともよく言い「超オッケー」だと「Can Can キャンキャン!」。そして、僕はそれに馴染めないでいる。でも彼らが大好きなドリアン・レストランに誘われる時だけ、僕は「No Need ノーニー」とシングリッシュで断るのだ。

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CMプランナーは日本独自の文化
 僕がいじけているもう一つの理由は、「シンガポールでCMをつくりたい!」という目的でこの地に来たのに、CMを作れる機会がなかなか無いことだ。シンガポールは東京の半分以下の人口ので、僕のマンションで見れるテレビの民放も2局だけ、チャンネル5とその中国語チャンネル。メディア効率的にも、オンエアされるCMの総本数的にもそんなにチャンスはなく、完全な僕の予習不足。常にCM中心だった日本がレアケースなのだが、やっぱり落ち込む。。。
 
 それでも、CDのエリックとADのドミニクは「CMプランナー?何だそれ?」と言いながら、自分たちの仕事に分け隔てなく僕を入れてくれ、仲のよいカメラマンやCGプロデューサーを紹介してくれたり、色んなエリアへローカルフードを食べに連れて行ってくれた。そして次第に僕も「まずはシンガポールの文化や国民性を知り、駐在クリエイターとして知見を深めていこう」と思える様になったのである。そんなある日だった。

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Chapter 3
 「え?ベトナムっすか?」僕は窓から遠くを見つめた。

「野嵜さんね、来月からベトナムに赴任して欲しいんだよね」

 ある日、日本人上司に呼び出された僕は予想しなかった言葉を聞く。ベトナムオフィスがバタバタで人を欲しがっているので、年末まで3ヶ月間手伝って来て欲しいとのこと。上司は最後に「色々あると思うけど、何でも頑張ってみてね」と言った。うーん僕は、何でも頑張るためじゃなくて、シンガポールでCMをつくる為に、日本を飛び出したんだけどな。。。当初の思いと現実がずれていく。僕は思わずオフィスの窓から遠くを見つめてしまった。

 ベトナムがどういう所なのか全くイメージ出来ない。そして上司が言った「何でも」という言葉の意味も。。。

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「どうやって渡ればいいんだよ・・・」
ベトナム・ホーチミンシティ。路上で、僕は戸惑っていた。無数のバイクが目の前を通り過ぎていく。大通りなのに信号はない。止まらない汗。不動産屋の男性は30分以上遅れて現れた。長期滞在になるから、アパートを借りた方がいいと勧められたが、案内された部屋はどこも窓がなかったり(ベトナムでは安ホテルも窓がない部屋が多かった)オフィスから遠かったりしたので、会社に相談して一泊25ドルの古いホテルに長期連泊することにする。

「I am not a Traveller! (俺は旅行者じゃねーぞ!)」
 騒音と砂埃。シンガポールとは全然違うが、ホーチミンも都会で、人々が生活する為の金を稼ごうとする活力に満ちている。フランス植民地だった影響かパンとコーヒーが超うまく、ベトナムの麺料理フォーはスープとライムのマッチングが絶妙。タバコが 140円くらいだったのも嬉しかった。でもさらに僕はいじけている。繰り返すが、僕はシンガポールでCMをつくるために日本を発ったのだ。
 
 オフィスへ歩く途中。Tシャツ姿の僕に、バイクタクシーの兄ちゃんが「面白いとこ連れてくよ」と毎日声をかけてくる。僕は目を合わせず言う「I am not a Traveller!」俺は旅行者じゃない!...でも、本当にそうなのか?

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Chapter 4 
土砂降り。ビルは水に浸かり、僕は絶望を叫んだ。

「CMしかつくれないヤツに来てほしくなかったんだよね」
 ベトナム着任早々、支社長からの挨拶がわりの軽いジャブ。僕だって志願して来た訳じゃないんですよという言葉はもちろん言わない。CMしか出来ないとは言われたくなくて、色々頑張ってみる。お菓子メーカーの旧正月に向けたプロモーションプランの提案、クライアントが配布するカレンダーの構成打ち合わせ。ベトナム人の気質はシンガポール人とは全然違う。陽気なシンガポーリアンに比べて物静かだ。

 土日は会う人もいないのでひたすら街を歩いて、疲れたらカフェで安いワインを飲んで、行き交う人を見ていた。ホテルに帰ったらフロントの女性が僕を見てクスッと笑う。何?「いつまでここにいるのかと思って」いつまでだろう?こっちが教えて欲しかった。

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そして、その日は突然やって来た。
 ビルの窓を雨が叩く。朝から降っていた雨は午後になり強くなり、出先から戻って来たスタッフが「1階がすごいことになっている」と言った。接客を終えた支社長は、僕を呼び
「お客さんをクルマでお送りしてくれるかな?」
 確かにこの雨では、タクシーを捕まえられる様な状況ではない。僕は初対面の日本人のクライアントを社用車でアテンドする役目を仰せつかった。
「じゃあ、先にクルマを入り口に回しときます」
 会社の運転手のマンさんに声をかけて1階に降りてみる。
「え・・・」
 エレベーターが開くと、目を疑う。1階はくるぶしが隠れるくらいに水が浸かっていた。僕は膝下をずぶ濡れにしながらエントランスに向かうしかない。まだ水は流れ込んでくる。
 
 普通に日本で働いていたら遭遇する必要がなかった状況に、突然感情が溢れた。

「何なんだよ。これは...」
 
 僕は、心の中で「絶望」を叫んだ。大声で。

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Chapter 5 
僕はグローバルで戦うタフなB2Bの現場を見ていた。

 お互い足元をずぶ濡れにしながらも、何とかクライアントを車内に案内し、クルマが走り始める。雨が止む気配は全くなく、ゆっくりとしか進めない。
「野嵜さんは、ベトナムには来たばかりなんですか」
 そうなんですと僕は自己紹介から、昨日タクシーでボラれた話や、信号のない大通りをうまく渡れないコトなど、日本と違ってスムーズに行かないことを軽く愚痴った。するとクライアント氏もうなづきつつ、自分のこれまでの苦労話を笑いを交え話してくれる。文化の違いか値段なのか、日本のヒット商品がこっちで全然売れなかったこと。信頼出来る現地のビジネスパートナーと出会う迄に何度も痛い目にあったこと。日本的なやり方で仕事を進めたら現地の社員に総反発喰らった話。
「でも、違うってことを理解できた時に何かが変わったんですよ」
 彼の話は面白かった。そして僕は衝撃を受けていた。彼の仕事において広告活動は一部であり、その他に無数にある大変な仕事を必死にこなす為に、この地に駐在しているという事実にである。

 僕は急に「CMをつくりに来たのに」とだけ思っていた自分がとてもちっぽけに思えた。。。そして同時にひとつのことに気づいた。

 僕はこれまで、日本企業が知らない土地で自社のビジネス内容を紹介したり、違う文化を持つビジネスパートナーと協力しあったり、優秀な現地の人材をリクルートする為苦心したりという、普通に日本にいたらなかなか見れないタフなB2Bの現場を、このアジアで見ていたのだ。

 今まで、僕はそんな視点で考えたことがなかった。

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「いつまでベトナムにいらっしゃるんですか?」
 という僕の質問に彼は、今も毎日大変だけど、何かを掴んで日本に帰りたいと言い「何だかんだこの国が好きになってるんですよ」と微笑んだ。そこには文化や言語の難しさや国民性の違いに毎日ぶつかりながら、力強くプロジェクトを前に進める日本人ビジネスマンの矜持プライドがあった。

 何かが僕の中でベロンと剥がれた。
 
 自分の言葉に照れたのか「でもたまに帰国すると、ずっと日本にいたいと思っちゃうよね」と彼が付け加えた時、クルマがオフィスの前に着いた。

「いつか一緒に仕事出来るといいですね。どこかの国で」
 彼は爽やかに礼を言い、濡れないように小走りでオフィスに消えて行った。ワイパーの音が僕の鼓動と同期する。雨が降り始める前にはまったく無かった感情が僕の中に生まれていた。異国で奔走する彼らのビジネス内容が、現地でもっと有効に伝わっていくお手伝いをしたい。本気で伝えたいと思った瞬間、CMかどうかなんて関係なかった。その時、僕は「旅行者」でなくなった。


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【終章】 
アジア→B2B→CES 2022。そして旅は続く。

 2021年。東京。あれから14年が経った。僕は本社で、同じ様にクリエイティブとして笑ったり、悩んだりして広告に向き合っている。

 12月の早朝。僕は「光触媒」を手がけるスタートアップカンパニーの撮影現場で、太陽が昇るのを待っていた。今回制作してるのは「CES 2022」というアメリカのテクノロジーの展示会で流れるブランドムービーである。まだ知られていない日本企業の新しい技術を、欧米人のオーディエンスにどう紹介するかを考えるのは簡単でなく、企画時には考えもしなかった問題にもぶち当たり苦しむ日が続いた。

 この感覚はいつかにも感じたな。。。

 ベトナムの大雨の夜、絶望の中で感じた感覚だ。

 「光触媒」という技術をどう伝えるか?B2B仕事は内容が専門的で難解なことが多く、オリエンシートを読んだだけではビジネス内容が理解出来ないことも多い。そんな時、僕はクライアントの「熱」の在処ありかを探す。それはあの大雨の夜の後から心掛けていることで、自分が企画する上で一番大切なことだ。クライアントの仕事に対する「熱」を自分の中で肉体化出来た時に、専門的で高度な知識を日常レベルの共感に転化出来る。

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 今日ご一緒しているクライアントの方々も本当に熱い。皆さん目を輝かせて仕事の話をしている。僕は彼らを光触媒の会社として「希望の光をつかみ、それを世界に分配する人たち」だと定義した。光に向かって手を伸ばす人たち。撮影には当初モデルを起用する予定だったが、社長以下クライアントの皆さんが自分たちの「手」を使って欲しいと申し出られた。その熱は、映像を嘘のない広告にした。
 もうすぐ陽が昇る。今日もいい撮影になるだろう。

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 B2Bという岸に漂着して、今思うこと。
「CMでなくても、何でも頑張れますから相談してくださいね」

 最近、この言葉をよく言っている自分に気づく。「何でも」とはビジネスとビジネスの間にある何でも(=B2B)でありベトナムに赴任する前に上司に言われた言葉への15年後のアンサーだ。あの時は全然分からなかったけど、その意味はその後、僕の中で日ごとに大きくなっている。

 帰国以来色々な外資系クライアント案件に携わることも多くなった。逆も然りで、日本の家電メーカーの仕事でもアジア各国向けの企画提案をさせて頂いたりと、東南アジアで実際に生活した経験が自分の中で大きな財産になっている。
 B2Bに関して、言葉や文化の違い等のエクスキューズがある仕事でも、クリエイティブとしてアジア駐在した僕だから理解・昇華出来ることも多いと思う。そのブランドやサービスが持つ「熱」を、世の中へ共感とともに伝えていきたい。伝える場所が広ければさらに面白い。僕の心の中のマーライオンは、今も希望のシャワーを噴き上げている。と思う。

 2022年。今年もどんな企業の「熱」と出会えるのだろう。
 ベトナムで出会ったクライアント氏の「いつか一緒に仕事出来るといいですね」という言葉が、今も僕の中にじわっと残っている。いつか、世界のどこかで

企業と世の中が握手出来るコミュニケーションをB2B専門チーム一丸で
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【おまけ】2007年のその後の僕はというと。

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「ノザキー!やっとドリアン食いにシンガポールに帰って来たのかー!!」
エリックとドミニクが僕を見てニヤッと笑い、交互にハグしてくれた。この笑顔を見たらドリアン食べに行くしかあるまい。。。僕は観念した。
 
 最後にもう一度だけ2007年ベトナムに時計の針を戻す。その大雨の日の後の話。考え方が変わると流れも変わるモノで、何でも頑張ってみようと思うと仕事もうまく回り始めた。中でも、はじめにベトナムに降り立った時、度肝を抜かれたバイクのキャンペーンに携わることが出来、企画提案からオーディション、ホーチミンのスタジオでの撮影、編集まで全てが大変だったが貴重な経験となった。毎日色んな種類の打ち合わせをして、首都ハノイに出張して又違う文化に驚き、プレゼンし、毎晩支社長と一緒にご飯を食べて、色んな話を聞かせてもらった。そのすべてが、かけがえのない日々。
 
 そして、とうとうシンガポールに帰る日が来た。スタッフの皆が見送ってくれ、支社長とガッチリ握手。センチメンタルな気持ちになる。ありがとうホーチミンシティ。手を振って別れる。気がつけば僕は、信号のない大通りを普通に渡れる様になっていた。
 
久々のシンガポールオフィスに出社してみると・・・
 飛行機がシンガポール着陸。暑さの質が少し違う。ちょっとだけ異国で生きていく自信をつけて、久しぶりにシンガポールのADKオフィスに行くと「おー!帰ってきたねー」と笑顔で迎えてくれた上司はサラッとこう言ったのであった。
「で、今度はインドネシアに行って欲しいんだけど」
 
 え?いきなりですか。。。。でも僕は迷うことなく言っていた。
「OK, lah!オッケー・ラーですよ」

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野嵜貴宏 Takahiro NOZAKI
クリエイティブとして様々なキャンペーンに携わる中、現在B2Bをコンセプトとしたクリエイティブチームに所属。アジア駐在を経て、グローバルな視点で常に広告に向き合っている。このNote執筆を経て、その後に赴任した「インドネシア篇」も少し書きたい気がしてきている。

【受賞歴】New York Festivals/Silver (2002) The International Broadcasting Awards (2002) ACC Awards(2011, 2013) Nikkei Advertising Award(2017)
Google Premier Partnership Awards Finalist (2019)

アジアで出会った全ての人に感謝を込めて。















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